お城と桜とりんごのまち
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弘前ねぷたまつり


扇ねぷた



平成21年 弘前ねぷたまつりは終了しました。
 平成22年 弘前ねぷたまつりへのお越しをお待ちしております。



弘前ねぷたまつり 津軽の夏の夜を焦がす弘前ねぷたまつりは、三国志や水滸伝などを題材にした勇壮で色鮮やかな武者絵が描かれた扇ねぷたや、組ねぷた大小合わせて約60台が、ヤーヤドーの掛け声と共に市内を練り歩きます。
 ねぷたの起源には、平安時代初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時に創造したという伝説や、文禄2年(1593年)7月、初代藩主為信公により、京都で創始という伝承もありますが、江戸時代元禄期の後半(18世紀初頭以降)、七夕祭りの松明流しや精霊流し、眠り流し、盆灯籠などから変化して、華麗に発展してきたというのが定説となっています。
 語源は、眠り流し→ねむた流し→ねむた→ねぷた(ねぶた)と、転訛。(佞武多、禰ふた、ともいう。)
 暑さの厳しい、しかも農作業の激しい夏期に襲ってくる睡魔を追い払うための行事で村中一団となって、様々な災い、邪悪を水に流して村の外に送り出すものといわれています。
 近年では、昭和55年(1980年)1月28日から重要無形民俗文化財に指定され、現在に至っています。

 江戸時代の記録によると、箱形の灯籠に飾りをつけたり、山車を真似た人物、魚、野菜などの形のものを担ぎ回ったようです。
 (1810年前後)この頃、組ねぷた(人形ねぷた)が登場したようですが、今日の青森ねぶたに似た、高欄や開きのない素朴なものだったようです。
 (1882年以降)今日の扇ねぷたや、高欄、見送りのつけられた、本格的な組ねぷたが考案され、出陣をしています。

ねぷたの移り変わり
左:明治期の組ねぷた
中:大正期の扇ねぷた(見送り絵)
右:昭和初期のねぷた(鏡絵)

幕末期・現在のねぷた
上段:幕末期のねぷたの様子 (平尾魯仙筆)
下段左:現在の組ねぷた
下段右:扇ねぷた
まつりの熱気が伝わってきます。


勇壮な鏡絵弘前ねぷたは、昔も今も変わらず、小さいものから順に、型どおりの隊形に従って運行されています。一般的な隊形として、左右に消防組合名の分団印の弓張り提灯を揚げ、見物人を制しながら先頭をきり、つづいて、各町名を印した高張り提灯を従い、先灯籠(町印)、錫杖持ち、それに町内の面々が続く。その後に1人持ちの扇灯籠や2〜3人担ぎのねぷたなどの小さなものから順に並び、最後に大型ねぷたが運行されます。ねぷたの後ろには笛や太鼓の囃子方の一団が続き、勇壮な囃子を観衆の心の中に残しつつ、次の町内へと進んでいきます。


弘前ねぷた vs 青森ねぶた


青森ねぶたは、大きな人形山車と、その周囲で乱舞するハネト(踊り手)で賑わいます。戦に勝って帰ってくる姿を表した凱旋ねぶたともいわれ、豪華絢爛なまつりです。一方、弘前ねぷたは山車をゆっくりと引き、涼しげな笛の音と、力強い太鼓が響き渡ります。青森の凱旋ねぶたに対し、これから戦にいくという姿を表した出陣ねぷたともいわれ、勇壮華麗なまつりです。
(ねぷたとねぶた、読み方が違うのは、その地方の方言や発音に違いがあったものと思われます。)


華やかな祭りの様子 右上:アイデアいっぱいの前燈籠ねぷた
右下:女衆の粋な担ぎねぷた
左上:真打ち登場「大型ねぷた」
    ”大きいねぷたはあとから・・・”
左下:郷愁をかきたてる笛・太鼓

子供達の太鼓・見送り絵
右上:子供らの太鼓はめごい(かわいい)ヨ
右下:駅前コースの待機場所。夜間運行最終日とあって、酒を飲み、囃子
    をかきならし志気を揚げる。運行中とはまた別物の興奮を覚える。
左:華やかな表の鏡絵と対照的な憂いを含んだ見送り絵。

大太鼓
右:津軽情っ張り大太鼓
3代藩主信義公が、お国自慢で作らせたという伝説に基づいて、1970年に津軽情っ張り大太鼓保存後援会により制作されました。 (サイズ/直径3.3メートル)
左:津軽剛情張大太鼓
弘前中央青果株式会社が弘前市市制施行百周年記念の一環として1989年に制作し、市に寄贈したもの。 (サイズ/直径4.0メートル)