斜里町は、北海道東部、オホーツク海に面した、農業、漁業、観光業のまちで、平成17年(2005年)世界自然遺産に登録された知床で知られています。
農業では、小麦、甜菜、馬鈴薯を主体とした畑作農業が行われ、日本の穀倉地帯との一つとなっています。
漁業では水産資源に恵まれたオホーツク海を漁場とし、サケ・マスの水揚げが日本一となっています。また一次産業と一体となった食品加工業が盛んです。
観光業では、ウトロ地区に大小の温泉宿があり、ウトロ地区から車で20分ほどの知床五湖では、遊歩道が整備され世界自然遺産となった知床の自然を身近に観察できます。海の幸も観光の魅力で、年間約150万人の観光客が訪れます。
【斜里町とオホーツク海】
斜里町ホームページ:https://www.town.shari.hokkaido.jp/
江戸時代の弘前藩は、本州最北端にあったことから蝦夷地(北海道)との関係が深く、文化4年(1807年)には、蝦夷地周辺に出没するロシア船の襲撃に備えて、幕府の命令で1,000名を超える弘前藩士たちが蝦夷地に渡り、宗谷・松前・江差・択捉・斜里において警備の任にあたりました。
斜里には弘前藩士100名が派遣されたものの、厳しい越冬生活などのため、斜里の地で72名が亡くなるという惨事があり、途中での病気帰国者などを除くと、文化5年に任を解かれて弘前に帰り着いた者はわずか17名でした。
この弘前藩士の殉難事件が明らかになったのは、昭和28年(1953年)に東京・神田の古本屋で、弘前藩士の齋藤勝利氏が遺した「松前詰合日記」が発見されたことが発端でした。
その後、斜里町郷土史研究会の方々の熱心な研究で歴史的事実が明らかとなり、弘前藩士の殉難事件を知った斜里町の皆様の手により、昭和48年(1973年)、斜里町内の町民公園に「津軽藩士殉難慰霊碑」が建立され、第1回慰霊祭が挙行されました。
昭和57年(1982年)には慰霊碑建立10周年記念となった、第10回慰霊祭に当時の弘前市長が参列したことを契機に、斜里町との間に友好都市の機運が高まり、昭和58年(1983年)2月に旧弘前市が友好都市盟約を締結しました。
なお、市町村合併により新弘前市となってからも、平成18年(2006年)11月に友好都市提携の盟約を締結しています。
盟約後、40年以上にわたり、斜里町との間で友好都市交流が続いています。
特に、斜里町へ伝授した「弘前ねぷた」は、「しれとこ斜里ねぷた」として運行され、北海道の夏の風物詩の一つとなっています。
例年7月に行われる慰霊祭には、弘前市長及び関係者が斜里町を訪れ、慰霊碑を守る斜里町の皆様に感謝の気持ちを伝えています。
相互で「弘前ねぷたまつり」、「しれとこ斜里ねぷたまつり」に参加することや、双方の物産品の販売を通じた経済交流など、多くの分野で交流の輪を広げております。
令和5年(2023年)7月20日から22日までの3日間、友好都市締結盟約の記念として企画された弘前市民号が、5年ぶりに斜里町を訪問しました。
20日(1日目)に行われた歓迎レセプションでは、ちゃんちゃん焼きやでんぷん団子などの郷土料理が振る舞われる中、知床流氷太鼓やねぷた囃子の演奏などのアトラクションを楽しみました。
斜里町民から心のこもったおもてなしを受けた市民号の皆さんは、すぐにうち解けた様子で、ねぷたや地元の話題などで盛り上がっていました。
【歓迎レセプションの様子】
21日(2日目)は知床博物館と姉妹町友好都市交流記念館を見学し、両市町の歴史的な繋がりを学んだ後、「津軽藩士殉難慰霊祭」に参列しました。
午後からは知床観光ということで、知床五湖、知床峠、オシンコシンの滝などの世界遺産の大自然を満喫しました。
夜は「しれとこ斜里ねぷた」に参加し、弘前市から運んだ8メートルの大型ねぷたで出陣しました。
【津軽藩士殉難慰霊祭の様子】
【しれとこ斜里ねぷたの様子】
22日(3日目)は斜里町長を始めとする斜里町の皆様にお見送りをいただき、ホテルを出発してから小清水原生花園やオホーツク流氷館など周辺観光しながら弘前市に帰りました。
斜里町民の慰霊碑を守る心と、ねぷたに対する思いに触れ、より一層「友好の絆」が深まった市民号の旅でした。
【周辺観光の様子】
令和5年(2023年)8月1日、弘前ねぷたまつりに参加するため、斜里町から町民号40人が当市を訪れました。
ねぷた運行に先立ち行われた歓迎交流会には、7月に斜里町を訪問した弘前市民号の参加者も出席し、思い出話に花を咲かせていました。
その後町民号の皆さんは、ねぷた運行への参加や桟敷席での観覧など、熱気に満ちた弘前の夜を堪能していました。
【歓迎交流会とねぷた運行参加の様子】
担当 文化振興課 文化振興係
電話 0172-40-7015
ファクス 0172-35-3884