小笠原 校長
“わからない”。それは真剣に勉強と向き合った「はじまり」です。決意して、初めて真剣に勉強をしてみると、すぐに“わからない”が押し寄せてきます。やればわかるものだと思って勉強し始めて、すぐにわからないのですから“やっぱり無理だ”と思ってしまいます。しかし、それは違います。真剣に勉強と向き合っていないときは、“わからない”ことすら分かっていなかったのです。勉強は、やるとわからなくて、それをわかるようにしていく繰り返しです。“わからない”は、勉強し始めた「はじまりの光景」です。
“悲しい”。それはやさしく(強く)なる「はじまり」にもあります。馬鹿にし合ったり、嫌われることに怯えてばかりの日常が嫌になって、やさしい心で生きてみます。すると、飛び交う無責任な言葉に悲しくなったり、人の失敗を笑っている中にいて笑えなくなったりします。弱くなったのかと思ってしまいますが、それは違います。無責任な言葉や嘲笑が人を傷つけることに悲しみ、人としてやさしく、誰かを守るために強くなっていくのですから。“悲しみ”は、やさしく(強く)なる「はじまりの光景」にもあります。
憧れていたところに初めて辿り着いたとき、そこに達成感がなかったり、かえって大変さだけがあったりします。たとえば、上級生や選手、キャプテンなどになったとき、自分にだけ、これまで以上の大変さが求められていると思ってしまうことがあります。しかし、それは違います。先輩たちは大変さを笑顔でこなしていたから素敵で、だから憧れていたのです。憧れに辿り着き、担う大変さは周りからの期待であり、それはやりがいです。
「はじまりの光景」に立つ人へ、思い描く未来は、そこから始まります。
閉会式に話し忘れたことがあります。あの日は、「そこに一生懸命な人がいて、その人を応援するたくさんの人がいて。また、それらをたくさんの笑顔が見守って。なんと清々しい光景でしょう。昨今、一生懸命なことのカッコよさが廃(すた)れ、かえって中傷や悪口の対象にさえなる現代社会において、ここにある光景は清々しく、感動しました。どうか今後の学校生活においても、一生懸命がカッコよく、それらを応援する関係を大切にしてほしいです。また、この清々しさを三中生一人一人から社会に向けて発信してほしいです。」と話しました。
もう1つ話しておかなければならなかったことがありました。それは生徒のみなさんから発せられていた「声」についてです。その大きさは叫びも含めて相当なものでしたが、まったくうるさいとは感じませんでした。理由は屋外であったということではありません。それらが声援であったからです。人を威嚇したり怖がらせたりする奇声は耳障りで、たとえ屋外でも、また、大声でなくてもなくてもうるさいものです。
とかく学校は、“落ち着いた学校”を“うるさくない学校”として、声に託された思いは問わず大声を抑え、静かさを求めます。それで漂う静かさは、怯えや無関心からものであり、その冷ややかな静かさをもって落ち着いた学校とは言えません。
みなさんの声がうるさくなかった大事な理由がもう1つあります。それは、連絡や挨拶など聴かなければならないときに、すっと静寂をつくることができたことです。進行する司会からの「静かにしてください」という言葉が、ほぼなかったことがそれを証明します。
大きな声が声援ならば、それは応援の気持ちの大きさとして伝わります。また、聴かなければならないときに誰ともなくつくる静寂は、みんながみんなのことを思いやる気持ちの表れとして安心を感じさせるものです。ここに楽しく温かな学校の秘訣があります。互いの一生懸命に応援の気持ちが行き交い、賑やかな中にも一瞬の静寂をつくることができる、ここに“落ち着いた学校”も見いだします。あの時間をつくることができた生徒の皆さんが、これからの日常で、どのような清々しさをつくっていくのかが楽しみです。
生徒総会があります。生徒が、学校生活をよりよくしていくための話合いの場です。話すべき時に、話すべき場で、正しい話し方で質問や提案をすることで、考えや思いを実現できることを学ぶ場でもあります。~と言う私ですが、いつものように失敗経験からのお話です。
生徒だった頃の私は、総会で質問・提案したって何も変わらないと思いながら参加していた気がします。先生になってからも、例えば職員会議に対して同じように思い、実現していきたいことや変えていきたいことは思いついたときに行っていました。必要で大切なことと信念をもって行っていましたが、賛成は多くなく、止められ、叱られもしました。今思えば当たり前です。
その理由に気付くには5年、それ以上かかったでしょうか。取り組んでいたことが正しいか間違っているかではなく、進め方の問題でした。話すべき場で、話すべき時に、丁寧に理由も含めて話していなかったからなのです。たとえ正しいことでも、ルールに基づいて進めていかなければ、それはどこまでいっても“勝手”なのです。あの頃の私は、会議・手続きを経ず貫き通すやり方に、勘違いの改革者気取りだったのかもしれません。
そんな自分に、「やりたいこと(変えたいこと)が大きければ大きいほど、冷静に丁寧に説明しなければならない(ルールを守らなければならない)。」と、今は亡き父が教えてくれました。八方塞がりな中で実践してみました。すると不思議なくらい認めてもらえたのです。まるで、「自由」を得る方法を知ったかのような気持ちでした。「ルール」は“窮屈な制限”ではなく、「自由」が認められる枠組み、得る手続きだと気付きました。生徒総会では「ルール」を生かして、よりよい学校生活を目指してほしいです。
ところで、学級担任をしていた頃、“学校生活はキャンプ”と言っていました。“キャンプは、あえて水道やガス、寝る場所など不自由なところで、工夫して作り、食べて、工夫して眠り、だからこそ得られる喜びを求めて行きます。キャンプは、不自由への工夫を楽しむものです。学校は、たくさんの人がいて思いどおりにはならなくて。布団はなく、テレビもおやつもない。教室、机、筆記用具、体育館、グランドしかなくて。そのままでは楽しめないところで、楽しさを得るための工夫を学ぶところです。”
生きていくとそのほとんどで、環境は十分ではありません。そこでつまらなさを環境のせいにするか、不十分さを工夫して楽しもうとするかで人生の色合いは全く変わります。キャンプ日和です。“三中キャンプ”の始まりです。まずは、よりよいキャンプ場についての話合いがあります。工夫を楽しむ場なのですから、便利にしすぎてはダメかもしれませんね。今だから、ここだから、学校だからの楽しさを大切にしていきましょう。
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