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古都の町名一覧

古都の町名一覧

浜の町 (はまのまち)


参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが、宝暦6年(1756年)には藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました。

紺屋町 (こんやまち)

弘前城築城当時から、ここは染物屋の町として町割りされ、100軒以上もの染物屋が建ち並んでいたところです。当時、染物屋のことを「紺屋」と呼んだ事から、この町名がつけられたといわれています。

【写真:懐かしい風景の残る紺屋町】

亀甲町 (かめのこうまち)

慶長8年(1603年)、藩祖為信が、新城築城とその城下の建設に着手した、最初の町割りが当地であったといわれ、兵法にいう城を守る四神(東西南北の神)の北の神、玄武(亀のこと)にちなんで命名されたと伝えられます。それ以来変わることなく、現在に至った弘前城にゆかりの深い町名です。

禰宜町 (ねぎまち)

弘前城築城とともに町割りが行なわれ、弘前総鎮守八幡宮の神主(禰宜)と、別当最勝院の僧侶たちが多く住んだことから、町名になったといわれています。八幡宮への参詣道として、門前町を形成していたところです。

田茂木町 (たもぎまち)

元禄年間(1688年~1704年)に、家臣の城外移転のために町割りされました。元文4年(1739年)8月の大風で、町内の山王神社(現 大杵神社)の御神木の田茂の木が倒れたという記録があり、町名はこの木に由来するといわれています。

五十石町 (ごじっこくまち)

弘前城が築城された慶長16年(1611年)、城の西側を守る中級武士の住む町として町割りされ、五十石町と名付けられました。それ以来変わらない町名です。

大浦町 (おおうらまち)

藩祖為信が「津軽」と改称する以前の姓が「大浦」でした。築城当初、城内の一画に大浦町を町割りしていましたが、その後、城外のこの地を大浦町と定め、藩政末期まで重臣達を住まわせていました。

蔵主町 (くらぬしちょう)

藩政時代初期は町家として町割りされ、「蔵人町(くろうずちょう)」と呼ばれていました。その後、早い時期に侍町に変わり、「蔵主町」と文字が変わり、後に現在のように呼び方が変わりました。

笹森町 (ささもりちょう)

当初は、弘前八幡宮への表参道であったため「八幡町」と呼ばれていました。慶安年間(1648年~1652年)のころ、篠森勘解由(ささもりかげゆ)という豪傑な武士が住み「佐々森町通り侍町」と呼ばれ、元禄時代に現在のように変りました。

新町 (あらまち)

当初は、岩木川原も含み、山師や木場人足が住むほか、造り酒屋などのある商工業の町で、人足の気性の荒さや川の氾濫から「荒町・阿羅町」と書かれました。寛文5年(1665年)までは江戸への道筋で、南北の町並みを江戸町とも呼びました。

鷹匠町 (たかじょうまち)

慶長16年(1611年)、現在の弘前である城下町高岡が作られ、この地を鷹匠町と名付けてから、今日まで一度も町名が変わらない、弘前でも由緒ある町のひとつで、その名の通り、鷹匠が居住したところと伝えられています。

馬屋町 (まやちょう)

弘前城築城当初、ここは城の一郭で、西外曲輪(にしそとぐるわ)と呼ばれており、百石取りの侍屋敷と、藩主や家臣の馬を馴らす廐(うまや)や馬場がありました。藩政中期になると、廐が少なくなりましたが、廐にちなんで馬屋町と呼ばれるようになりました。

白銀町 (しろがねちょう)

弘前城築城当初は片原町と呼ばれていましたが、慶安3年(1650年)の町割り帳では、既に白銀町と改名しています。著名な鍔(つば)職人である正阿弥家をはじめ、金銀細工の職人が多く居住していたことから名付けられたといわれ、明治に入って間もなく、現在の上白銀町と下白銀町に分かれました。

親方町 (おやかたまち)

藩政時代当初、城下の町々が職業別に町割りされた時、この地は馬で荷を運ぶ荷駄方人足の親方衆が住むところでした。当時は現在の2倍ほどある大きい町でしたが、宝永3年頃(1706年)の割り替えによって、現在のような小さい町になりました。

元寺町 (もとてらまち)

弘前城築城当時は、寺町と呼ばれる寺院街でしたが、慶安2年(1649年)、数カ寺が焼失したのを機に、翌年からすべての寺院が現在の新寺町に移建され、この寺町は商人町に変わり、本寺町(後に元寺町)と呼ばれるようになりました。

鞘師町 (さやしまち)

刀の鞘を作る職人にちなんで付けられた町名で、築城当初には寺町の一画でしたが、元禄9年(1696年)の町割帳に鞘師町と改称されています。後に南通りを上鞘師町、北通りを下鞘師町と呼び、現在に至っています。

百石町 (ひゃっこくまち)

慶長16年(1611年)、弘前城築城当初の武士居住区の多くは、単に「侍町」と呼ばれ、この町もそのひとつでした。当時の百石町は、現在の馬屋町の一部につけられた町名で、後に二百石町と改称されるにあたり、侍町は新たに百石町と名付けられ、現在に至っているものです。

【写真:百石町展示館前にある百石町の標柱】

徒町 (おかちまち)

藩政時代初期は若党町に「歩ノ者町(かちのものちょう)」として町割りされましたが、万治2年(1659年)に現在地を「御徒町 (おかちのちょう)」として新割りされました。町名の表記では御歩行町も見られますが、明治時代に徒町と書かれるようになりました。

萱町 (かやちょう)

正徳元年(1711年)に南横町の新割り屋敷としてつくられ、主に下級武士が住んでいました。町名の由来は、町割り以前は田園地帯で、カヤが群生していたことによるといわれています。

和徳町 (わとくまち)

元禄9年(1696年)の家臣の城外移転に伴い、和徳村の一部が転移して作られました。江戸時代末期には和徳桝形も設けられ、青森に至る街道筋であったため、商家の屋並みも形成されてにぎわいを見せました。

元大工町 (もとだいくまち)

弘前城築城の際、城内構築のため、大工職人を城の近くである、この地に住まわせていました。しかし、武家郭外移転のため、大工職人は現在の西大工町に移り、ここは元禄13年(1700年)には、元大工町となり、藩医・町医などが住み、医者の町とされていた時代もありました。

本町 (ほんちょう)

藩政初期から鍛冶や銅屋の職人町で、著名な刀工が住んでいたことから本鍛冶町と呼ばれ、この略称から本町(ほんまち)となりました。宝永2年(1705年)、城の大手が南門(現 追手門)となってからは、豪商が軒を連ねる商人町となりました。

鍛冶町 (かじまち)

刀や鎧(よろい)を作る鍛冶職人は、合戦になれば最初に城内に呼び入れるため、当初は覚仙町や本町に町割りされていました。しかし、江戸中期頃から日用雑器や農工具を作るようになったため、現在地に移りました。

土手町 (どてまち)

築城当初は東側から城下に入る唯一の通りで、土淵川の西端に堤が築かれていたことから土手町と呼ばれるようになったといわれています。貞享2年(1685年)に参勤交代の通路となり、商人町として発展しました。

瓦ヶ町 (かわらけちょう)

城内で使用する瓦を作っていた「御瓦屋」があったところから名付けられました。元禄時代の家臣の城外移転に伴い、土淵川の東地区で土手町とともに町割りをされた下級武士団の居住区で、現在は上・中・南・北の各瓦ヶ町があります。

代官町 (だいかんちょう)

藩政時代中期、津軽領内には18の代官所がありました。ひとつの代官所には、2人の代官が交代で勤めていました。これらの代官の住む屋敷がこの通りに町割りされていた事から名付けられました。

茂森町桝形 (しげもりまちますがた)

城下町の道路は、敵の侵入を困難にするさまざまな工夫がされていましたが、見通しを防ぎ、直進できないように二重の角をつけた桝形もその一つです。ここは弘前城の出城構の長勝寺構に当たるため、特に設けられたといわれています。

在府町 (ざいふちょう)

在府とは、大名やその家臣が江戸で在勤することをいいます。藩政時代初期、この辺りは足軽町といわれていましたが、やがて江戸で召し抱えた侍を弘前に連れて来た時、この地に住まわせた事から、在府町と呼ばれるようになりました。

新寺町 (しんてらまち)

慶安2年(1649年)、弘前東方の寺院街の一画が焼失したのを機に、3代藩主信義は15カ寺の建築に着手、南溜池西方に新寺院街を作りました。以来、この地を新寺町と呼ぶようになりました。

桶屋町 (おけやまち)

この地は、寛文13年(1763年)頃は、「新しく分かれた」という意味で「新派町」として町割りされましたが、元禄13年(1700年)には、既に桶屋町と呼ばれていました。桶や樽などを作る職人が多く住んでいた事から、桶屋町と名付けられたものです。

【写真:最勝院より見た桶屋町】

銅屋町 (どうやまち)

藩政時代初期には、本町付近に町割りされていましたが、元禄9年(1696年)頃に現在地に町ができました。日常生活用具の鍋や釜などを作っていた職人が住んでいたことから名付けられたものです。

紙漉町 (かみすきまち)

4代藩主信政公政下の貞享3年(1686年)、紙漉師 熊谷吉兵衛を弘前に招き、紙漉に適した清水の湧くこの地に、紙漉座を設けて各種の紙を漉き、藩用にあてました。非常に良質の紙で、幕府への献上品となったりしました。しかし明治に至って衰退し、現在は町名と今も湧き出る「富田の清水(しつこ)」に名残を留めています。

【写真:「富田の清水(しつこ)」が目印の紙漉町】

茂森町 (しげもりまち)

城下町、弘前が建設された慶長8年(1603年)、弘前城北方の亀甲町などとともに、最初の町並みとして、また城の要所として町割りされたところです。町名は近くにあった重森山(茂森山)にちなんでつけられたといわれています。

楮町 (こうじまち)

楮は紙を漉く材料です。町は、紙漉座のために楮を植えたのが始まりで、やがて町割りが拡張され、家が立ち並ぶようになり、元禄13年(1700年)に楮町と名付けられました。

松森町 (まつもりまち)

貞亨2年(1685年)、参勤交代の通路となった碇ヶ関街道の道の両側には、沢山の並木松が植えられていました。この松を手入れする人達である「松守」を、この辺りに住まわせた事から、松森町と呼ぶようになったといわれています。

桝形 (ますがた)

弘前城下の道路は、敵の侵入を困難にする目的で多くの工夫がなされています。直進を防ぐために二重に角をつけた「枡形」もそのひとつで、町の出入口などに多く設けられました。ここに残る枡形は、南東入口の守りとして作られたもので、古くは富田町枡形と呼ばれていました。

樋の口町 (ひのくちちょう)

天文年間(1532年~1555年)の史料に「樋口」の地名が見られ、延宝2年(1674年)などの岩木川の堰き止めにより、その支流であった樋ノ口川は田畑に姿を変え、弘前城下からの入作者も多かったところでした。

春日町 (かすがちょう)

宝永8年(1711年)、弘前城の西北堀に当たる馬喰町の北側に町割りされた典型的な侍町です。現在も同所にある春日宮は、宝永5年(1708年)に建立が計画されて延享2年(1745年)に完成したもので、町名はこのお宮に由来します。

覚仙町 (かくせんちょう)

慶安2年(1649年)には10軒の鍛冶屋があり「かち町」と呼ばれたが、町内にあった修験の寺院の覚勝院にちなんで、元禄13年(1700年)の侍町屋敷割には覚勝院前之町と見え、やがて寛政年間(1789年~1801年)に現在の町名に固定しました。同町に住んだ国吉家・森宗家・国広家は津軽の刀匠として著名です。

茶畑町 (ちゃばたけちょう)

寛政12年(1800年)の弘前分間大絵図に武家屋敷が配置されており、町名は屋敷割がされる以前に、茶畑があったことに由来するといわれています。幕末に町割の変化が見られ、文久3年(1863年)には、江戸で勤務していた武士を帰国させるために長屋が建設されました。

駒越町 (こまごしまち)

ここは、弘前城下から藩祖為信の居城であった大浦城跡や岩木山神社に続く通りで、駒越川(現 岩木川)には橋がなく、「駒越渡し」と呼ばれた渡し場がありました。貞享元年(1684年)ころに町屋として町割りされ、酒造や雑貨商などが軒を連ねて栄えてきました。

若党町 (わかどうちょう)

当初は「歩者町(かちのものちょう)」と呼ばれ、慶安年間(1650年頃)は「御陸尺町(おろくしゃくまち)」と改まりました。「陸尺」は乗り物を担ぐ者などです。元禄年間からこの地に武士が居住するようになり、現在の町名になりました。「若党」は武家の付き人のことです。

馬喰町 (ばくろちょう)

当初は「籠町(かごまち)」と呼ばれていましたが、馬の鑑定、医療や売買を行う「博労(ばくろう)」が住んでいたことから博労町となりました。元禄年間からこの地に武士が居住するようになり、町名も今の書き方になったとされます。

小人町 (こびとちょう)

当初は「御小人(雑役)」の居住地区で、現在の若党町の東半分も含んでいました。元禄以後、若党町と同じように武士の居住地に変わりましたが、町名はそのまま残されました。

相良町 (さがらちょう)

慶安3年(1650年)には侍町となっていて、徳川幕府から預けられた相良清兵衛の屋敷があったことから、元禄6年(1693年)には相良町になっています。清兵衛は、人吉藩(熊本県人吉市)の家老で、幕府への功績がありましたが、島原の乱への出兵を拒んだことから、弘前に配流されました。

鉄砲町 (てっぽうまち)

当初は寺町(現 元寺町)の一画として町割りされていましたが、元禄13年(1700年)の弘前侍町屋敷割で「テッポウ町」と見えることから、この頃から町名が定まったものと思われます。鉄砲師 国友家などの工人が居住していたことから名付けられたと考えられています。

西大工町 (にしだいくちょう)

寛文13年(1673年)に新町の西に町割りされ、その後、大工の居住するようになり、天和2年(1682年)頃、大工町(現 元大工町)に対し西大工町と呼ばれるようになりました。元禄年間からの城内居住武士の城外移転により、大工町(現 元大工町)から大工職人が移住してきました。

住吉町 (すみよしちょう)

宝永5年(1708年)、現在地に住吉神社が置かれたのち、周辺に町割りされ、主に下級武士が居住していました。町名は、この神社に由来しています。
 

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