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福士幸次郎

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福士幸次郎

 

年齢

経歴

明治22年(1889)

0歳

11月5日、弘前市本町130番地に、父・慶吉、母・ハルの四男として生まれる。

明治29年(1896)

7歳

青森市莨町尋常小学校に入学。

明治34年(1901) 

12歳

青森高等小学校(現浦町小学校)に入学。

明治36年(1903) 

14歳

県立第三中学校(現青森高等学校)に入学。

明治38年(1905)

16歳

2年修了直前、教師と衝突して退学。厳冬の中、山形にいる母と兄の所へ出奔。8月、母と上京して開成中学校の2年生に編入。

明治39年(1906) 

17歳

開成中学校を中退。国民英学会(夜間部)などで英語仏蘭西語を修める。

明治41年(1908)

19歳

秋田雨雀の紹介で、佐藤紅緑方に寄寓する。以後、紅緑と終生交流を続ける。

大正3年(1914)

25歳

4月、最初の詩集『太陽の子』を洛陽堂より自費出版。

大正6年(1917) 

28歳

11月、紅緑に勘当されたサトウハチローを伴い、小笠原諸島父島で暮らす。翌年2月、本土に戻る。

大正8年(1919) 

30歳

8月、弘前に一戸謙三らによる「パストラル詩社」が結成され、指導にあたる。10月、谷中の臥龍館から府下滝野川田端543に転居、サトウハチローと同居する。11月、秋田県の片岡梅枝と結婚。

大正9年(1920) 

31歳

6月、第二詩集『展望』を新潮社より刊行。

大正12年(1923) 

34歳

9月、関東大震災に遭う。12月、一家をあげて帰郷し、板柳町の菊地仁康方に滞在。

大正14年(1925) 

36歳

弘前市の東奥義塾に招かれ、国語の講師となる。

大正15年・
昭和元年(1926) 

37歳

1月、東奥義塾を退職。2月、「地方主義の行動宣言」を発表。10月、青森日報社に主筆として迎えられ、高木恭造と出会う。

昭和3年(1928) 

39歳

6月、地方巡歴の旅に出る。

昭和8年(1933) 

44歳

甲信越、北陸地方を半年にわたり踏査する。

昭和17年(1942) 

53歳

5月、『原日本考』を白馬書房より刊行。

昭和21年(1946) 

 

2月、選挙応援のために富山市に出かけ、病を得て帰京。10月11日、兄の疎開先である千葉県館山市にて死去。(56歳)

 

 

誕生と少年時代

 

明治22年11月5日、父・慶吉、母・ハルの四男(戸籍上は三男)として弘前市本町130番地に生まれる。初め寿平と名付けられたが、兄・民蔵の反対で幸次郎と改められた。父は元寺町常設芝居小屋「柾木座」の座付役者で、市川森五郎と名乗っていた。幼い頃に生地弘前を離れて苦労を重ねた幸次郎は、一旦信じた事はやり通すという強情さを持つ子どもだった。
明治38年、県立第三中学校(現青森高等学校)2年の1月末、担当教師のあだ名を書いて陰で笑っている生徒を卑怯だと思い、幸次郎は同じ言葉を黒板に書いて教師が来ても消さなかった。そのことを問題視されて登校せず、暗澹たる日々を送る。3月、大吹雪の中、無断で津軽を飛び出して冬の奥羽山脈を横断、母と兄のいる山形へ辿り着くなど、テンポ(無鉄砲)でジョッパリ(頑固)な少年であった。

 

 

佐藤家との交流

 

明治41年、秋田雨雀の紹介で佐藤紅緑に初めて会い、紅緑宅に寄寓する。以後、仕事の他に生活面でも深い繋がりを持つことになり、紅緑の離婚問題から長男・ハチローへの理解と指導など、その交流は終生続いた。

 

左からサトウハチロー、幸次郎

 

 

詩壇での活躍

 

明治42年から詩の実作を始めた幸次郎は、「自由詩社」の同人となり活発な詩作活動に入る。詩誌や文芸誌に作品を発表し、第一詩集『太陽の子』(大正3年)の刊行によって詩人としての確固たる地位を得た。また、その語学を活かして翻訳物も多数手がける。

 

『太陽の子』
洛陽堂 大正3年

 

 

東奥義塾と幸次郎

 

大正12年、関東大震災で被災した幸次郎は家族を連れて約20年振りに帰郷。菊池仁康の世話で板柳町や新和村(現弘前市青女子)の竹浪政夫方に居を定めた。大正14年4月、弘前市の東奥義塾(塾長・笹森順造)に教師として招かれ、国語、漢文、作文を教える。今官一ら生徒が文芸誌『わらはど』を発行するなど、短い期間ながらも生徒たちに大きな影響を与えた。

 

『わらはど』No.1
昭和2年

 

 

地方主義の行動宣言

 

大正8年頃から「詩作活動を放棄し、思想の追求と批評に従う」と宣言した幸次郎は、大正15年2月に「地方主義の行動宣言」を発表した。「生活や文化は、地方の伝統に基づいて生まれるべきだ」というその主旨は、郷党の若い人たちに共感を持って迎えられた。石坂洋次郎、一戸謙三、斎藤吉彦、木村弦三、松井泰らがそれぞれの立場や分野で活躍、数多くの地方文化が花開いた。

 

 

調査と研究

 

大正12年頃、大和地方を巡った幸次郎は古代人の生活に感激。その後、柳田国男へ民俗学の指導を仰ぐ。奥羽地方奥地で鉄文化の研究に情熱を傾け、やがて越後、越中、加賀などの調査に回って山野を逍遥。浮浪者と間違えられるなど苦労を重ねるが、これが後に『原日本考』としてまとめられた。

 

左から『原日本考続篇』(三宝書院 昭和18年)、
『原日本考』(白馬書房 昭和17年)

 

 

晩年

 

長い間の放浪と踏査旅行が原因で極度に衰弱した幸次郎は、兄の疎開地である千葉県館山市北条海岸に転地して保養に努める。昭和21年10月11日の未明、兄夫婦と妻に見守られながら死去する。最期の言葉は「兄さんありがとう」であった。

 

福士幸次郎先生告別式 寄書

 

 

3つの文学碑

 

幸次郎の没後10年目の昭和30年11月5日、かつてよく踏査旅行をした愛知県尾西市の善福寺に、尾張福士会の尽力で「福士幸次郎先生原日本考発想之地」の記念碑が建てられた。また、同32年10月13日には、福士幸次郎詩碑建設の会によって弘前公園三の丸に「鵠」の一節を刻んだ詩碑が建てられた。同47年11月4日、十和田市立北園小学校創立20周年を記念し、子どもたちのためにと「太陽の子」の碑が建てられる。

 

福士幸次郎詩碑除幕式のあとで(昭和32年10月13日・弘前公園三の丸)
後列左から高木恭造、今官一

 

 

弘前市立郷土文学館

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