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葛西善蔵

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葛西善蔵

年齢

経歴

明治20年(1887年)

0歳

1月16日、弘前市松森町141番地に父卯一郎、母ひさの長男として生まれる。

明治22年(1889年) 

2歳

一家をあげて北海道に移る。

明治24年(1891年) 

4歳

北海道から青森へ転籍。

明治26年(1893年) 

6歳

1月、五所川原に移り五所川原尋常小学校に入学。
5月、碇ヶ関尋常小学校に転校。

明治30年(1897年) 

10歳

碇ヶ関尋常小学校補習科に入学。

明治32年(1899年) 

12歳

五所川原で質屋を営む、神重三郎の手伝いをする。

明治35年(1902年) 

15歳

初めて上京。新聞売子の傍ら夜学に通う。

明治36年(1903年) 

16歳

冬、北海道に渡り鉄道の車掌、営林署の坑木伐採などで働く。

明治38年(1905年) 

18歳

再び上京。8月、哲学館大学(東洋大学の前身)大学部第二科普通講習科に入学。

明治39年(1906年) 

19歳

5月、哲学館大学大学部二年聴講。
8月、東京より徒歩で帰省する。

明治41年(1908年) 

21歳

南郡浪岡村、平野弥亮長女つると婚姻。
6月、碇ヶ関の葡萄園小屋に妻と住む。

明治43年(1910年) 

23歳

5月、鎌倉で半僧生活に入る。妻子が上京して来る。

大正元年 (1912年)

25歳

9月、同人誌『奇蹟』を創刊する。第一作「哀しき父」を発表。

大正4年(1915年)

28歳

1月、離婚の手紙を妻の実家へ送るが、和解する。

大正5年(1916年) 

29歳

9月、一家をあげて上京。曾野米穀仲買店にしばらく勤務する。

大正7年(1918年) 

31歳

家計困難のため、一家の生活を維持出来ず妻子を郷里に帰す。

大正8年(1919年) 

32歳

第一創作集『子をつれて』を新潮社より刊行。9月、西城館に移る。12月、鎌倉山内、建長寺・宝珠院に転宿する。

大正11年(1922年) 

35歳

9月、第五創作集『哀しき父』を改造社より刊行。

大正12年(1923年) 

36歳

7月、石坂洋次郎が初めて宝珠院を訪ねる。
9月、関東大震災に遭い、一命をとりとめる。

昭和3年(1928年) 

 

7月23日、午後11時8分、死去。(41歳)

 

第二の故郷 碇ヶ関

 

7歳の時、母の実家がある碇ヶ関村に転籍、碇ヶ関小学校に入り、同校補修科を卒業するが、ここで教師石田政蔵の薫陶を受ける。また、新婚間もない頃の3ヶ月間をこの村で過ごすなど、ここを舞台とした作品も多く、碇ヶ関村(現平川市)は善蔵の第二の故郷である。

 

碇ヶ関三笠山に建つ文学碑

 

父祖の地 弘前

 

曽祖父善司の頃から、松森町に境屋という店を開き父卯一郎の代には米の仲買を業としていた。善蔵は3歳の時に弘前を出るが、後年、父祖の地である弘前を何度となく訪れている。

 

母・ひさと

善蔵と北海道

 

幼児の頃に一家をあげて渡道。その後も北海道炭鉱鉄道株式会社の車掌、営林署員、また坑木伐採の労働に従事したり、姉ちよが岩内郡に住むなど、北海道との縁も深く、処女作「哀しき父」には、葛西歌棄(うたすつ)のペンネームを用いている。

 

 

『哀しき父』と『子をつれて』

 

結婚直後に上京した善蔵は、佐藤栄七や八田健一の紹介で徳田秋声に師事、その後舟木重雄、広津和郎、谷崎精二らと『奇蹟』同人となり、処女作「哀しき父」を発表。ついで「悪魔」「池の女」などを書くが、大正7年(1918年)に『早稲田文学』「子をつれて」を発表して、文名は大いに挙がった。

 

左:『哀しき父』(改造社 大正11年)
右:『子をつれて』(新潮社 大正8年)

 

鎌倉宝珠院

 

大正7年(1918年)、家計困難のため妻子を妻の実家へ預けた善蔵は、落ち着いて創作の出来る場所を求めて歩き、翌年12月鎌倉山の内建長寺宝珠院に転籍、以後大正12年(1923年)9月の関東大震災までここを住居と定めて創作活動に打ち込む。この間茶店招寿軒の娘浅見ハナが食事や身の回りの世話をした。

 

宝珠院の前で

 

「椎の若葉」と西城館

 

震災で九死に一生を得た善蔵は、上京して本郷区の西城館に移り間もなく浅見ハナも同居する。この頃から次第に体力が消耗、碇ヶ関三笠山の文学碑で有名になった「椎の若葉」も口述筆記であった。

 

 

終焉の地 三宿

 

大正14年(1925年)、佐々木千之の世話で世田谷町三宿122番地へ転居し、浅見ハナと同居。その後125番地から111番地へと移る。この間次第に病勢が進み、病苦、生活難、家族問題に悩まされ創作も口述による事が多くなるが「約束した原稿が間に合わない」という内容の「お詫び」が最後の作品となった。

 

 

左:自筆草稿
右:三女ゆう子と

 

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